
ハチノジ物語1
1999年8月1日、「ハチノジ」が死亡した。朝、村人から、様子がおかしいカモシカがいるという電話が入った。
場所を聞いて、ひょっとしたらと胸騒ぎがあったが、予想が当たった。
私がここに引っ越した1987年から、時々、わが家の回りに姿をみせるカモシカがいた。老齢のオスで、
鼻筋の黒い紋様が漢数字の「八」の字に似ているところからこの名がついた。山の中で暮らすカモシカが人里
で生活するのは、ナワバリ争いに負けてはじき出されたというわけがあるが、ハチノジの場合は、それだけで
はないような気がしていた。
かけつけると、婦人たちに見守られてハチノジはたたずんでいた。近づいても逃げる素振りがない。体や脚
には外傷がないが、右側の上あごの肉がごっそりない。出血はわずかだが、傷口?が深くて大きい。しばらく
採食していないらしく、腹部がへっ込み、ふたわまりも小さくみえる。もう駄目だと思った。
日曜日であったが、教育委員会の担当職員に駆けつけてもらった。何しろ特別天然記念物のニホンカモシカである。
協議した結果、もはや手の施しようがなく、せめて山で死なせてやろうという意見でまとまった。
ハチノジを動かそうと背中に手をそえると、骨の感触が伝わり、私が小さい頃、死期が迫った祖父の体を
さすった時の感触がよみがえった。

よたよたではあったが、自動車道路を2本横断して200メートほどの道のりを自力で歩き、山林の草むらに
座り込んだ。途中、息も絶え絶えでかわいそうな気がしたが、山に入ったことでほっとした。しかし、30分
ほどすると、ふらつく足で立ち上がり、なんとさっき横断した道路に向かって歩き始めた。「えっ」と私は
思わず声を出してしまった。おぼつかない足どりで道路直前まで戻って立ち止まったハチノジは、民家が立ち
並ぶ方向を見据えている。その時、ひょっとして、最後の場所を山ではなく、人里を選ぼうとしているのでは
ないかと思った。12年間の出来事が脳裏を駆け巡り、不覚にも涙がにじんだ。まもなく、体を支え切れなく
なったハチノジはその場にへたり込んだ。
午後5時18分、ハチノジは、私の目の前で呼吸を停止した。推定年齢25歳、カモシカ団地横の道路脇で
死亡、とフィールドノートに記した。
つづく
いそやまたかゆき