
ハチノジ物語・4
ハチノジは、わが家を訪れる旅人にも人気があった。お風呂からあがってわが家の芝生で涼んでいたら、
繁みから、にょっきりハチノジが顔を出し、あわててて駆けこんできた女性。朝、愛宕山公園で出会った人
の話しを聞いて探しに行ったが見つからず、あきらめて、バイクにまたがっていざ出発という時、玄関脇に
たたずんでいたハチノジ。
面白いことに、かれらは「どうやってカモシカを飼っているのですか?、エサは何ですか?」と同じ質問
をする。そうすると、夜の話しのテーマはきまり。「野生動物と人との共生」。
わが家でも、こんな話しがある。私が山のパトロールから帰ると、女房が興奮しながら報告した。
裏で洗濯物を干していると、音が聞こえた。ドス、ズシと重量感があり、それも、近づいてくる。音は
干しているシーツのすぐ裏まできて、ピタッと止んだ。女房は、そっとシーツの下を覗いて、足が立ちす
くんだ。ハチノジである。瞬間、彼女の脳裏には、闘牛場でマタドールが牛と戦って失敗し、角でつっつ
かれる光景が浮かんだそうだ。臆病な動物とはいえ、角があるということは、やはり、怖い存在なのだ。

そのうち、風がでて、糊をかけた洗ったばかりのシーツがゆれ始め、なびくたびに、ペチャ、ペチャと
音をたててハチノジの横腹にくっついた。彼女の恐怖は最高潮に達した。音をたてないように、サンダル
を脱いで裸足になり、ゆっくりゆっくりあとずさりし、玄関に飛び込んだ。すぐ、窓から様子をうかがっ
たが、すでにハチノジの姿はなく、シーツだけが風にゆれていた、と言う。
距離は、シーツを一枚隔てたとはいえ、数十センチであろう。ハチノジにとっても、長いカモシカ生活
のなかで、最高レベルの恐怖だったのでは、と考えている。
私は、話しを聞いて、何とも愉快な気持ちになり、不謹慎にも、写真を撮りたかったと思った。ちょ
うど1年前の出来事で、いまとなっては、二度と経験できない貴重な思い出になった。
ハチノジが亡きいま、こうやってエピソードを書くと、ほほえましく、心も和む。しかし、作物を耕作
する人々からみれば、ハチノジは、畑の作物や庭先の花を食べ、人に被害を与える「害獣」というあつか
いにもなる。
「野生動物と人の共生」は、なかなかひとすじなわではゆかない。
つづく
いそやまたかゆき