
「沢の音(ね)」
四季の中で、夏はニホンカモシカにとって一番難儀な季節であろう。
彼らは、氷河時代の生き残りとも言われ、気温の低い環境に適応する
体をもっている。長い体毛、熱い皮下脂肪はその証(あかし)。
冬、寒風ふきすざぶ岩上にひたすた立ち続ける、いわゆる「寒立ち」
の姿はその象徴である。さっぱりした夏毛に衣替えをして、採食を涼し
い朝夕にすませ、気温が上がる昼間は涼しい木陰で昼寝というのが、
彼らの夏の過ごし方である。
ある日、不思議な水音が耳に入った。サルたちの水遊びにしては変だ。
耳を澄ますと、不規則で重量感がある。正体の見当をつけて、ゆっくり
近づいて沢をのぞくと、予想どおり。一頭のカモシカが水の中を歩いていた。
ジャボン、チャッポン、時にドッポン…。お世辞にもきれいな音ではなく、
清涼感あるれる沢の風情を台無しにしている。間もなく、カモシカは立ち
止まり、動かなくなってしまった。身じろぎもせず、じっとしている。
本人は涼を求めているのだろうが、沢の音を楽しんでいるようにも見える。
そのうち、目を閉じ、立ったまま昼寝を始めた。トンボが舞ってきて、
何度も鼻先に止まったが、ピクリともしない。
様子を見ているうちに私は不思議な感覚に陥った。どのくらいの時間が
経過したのかまるでわからなくなった。リズミカルな沢の音、たたずむ
カモシカ、さしこむ陽光…。すべてが一体化し、私の五感がなくなり、
時間が消えた。
ふと気がつくと、ファインダーのなかにその光景が映し出されていた。
写真を生業とする者の性(さが)であろう。なかば無意識のまま、指先に
力を入れた。静寂が破れ、シャッター音が沢に響きわたった。
心地よい風が頬をなで、沢の音が耳にもどり、私の五感がよみがえり、
そしてまた時が動き始めた。腕時計は一時間を刻んでいたが、カモシカは
ずっと哲学者のままだった。
文責 いそやまたゆき
2000.8
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